五泉ニットの歴史・会社案内
代表挨拶
代表取締役社長 田中 一成
当社ホームページをご覧いただき、まことに有難うございます。
株式会社田長は、大正初期に祖父良太郎が田長商店として雑貨店を創業し、父良夫が昭和22年にニット卸に携わるようになりました。
当時は五泉ニットもまだ揺籃期であり、それから戦後日本の成長と軌を一にしながら、ニットの産地として全国に知られるようになるまで業界として花も嵐も経験し、今日に至った次第です。
さて、当社には、ニットアパレルの長い業歴の中でデザインサンプルの際立つ蓄積があり、当社の重要な経営資源となっております。特にジャガードについて各方面から高い評価があります。
最近は、オリジナル製品の開発に力を入れ、ニットマフラーの自社生産を始め、新しい感覚の製品をご提案しております。新商品として、ニットマフラー、アームウォーマー、ネックウォーマー、レッグウォーマーを自社開発しております。
これからも、お客様に喜んで貰える製品づくりに邁進致す所存ですので、叱咤激励をいただければ幸いでございます。
五泉ニットの歴史新潟県の地場産業
現在(2019年)平成31年、日本国内のアパレルニット製品製造関連企業は、東アジアの諸国、特に中国からの輸入で、極めて激しいい状況におかれている。日本国内にあるニット枚数で見ると輸入が99%、国内生産が1%という、まさに命運ここに尽きるという極めて激しいい状況におかれている。
五泉市は大昔は海であった。後、沼となり、町となっていった。五泉市はニットに代表される繊維のまちといっていい。五泉市は新潟県のほぼ中央にあり3つの山に囲まれ阿賀野川と早出川が流れる扇形状にある。五泉の名が示すように、昔五つの泉があった。そして、郷屋川、横町川、伊勢ノ川、大田川など5本の川が市街地を潤し、5本の川筋には機屋がたくさんあった。昔は川筋のあちこちに水車がみられ、糸繰機を動かしていた。この川筋に機屋が多かったというのも(特に郷屋川に多かった)、水量が豊かで、枯れることなく、糸繰機を動かしたからである。五泉は5つの川を中心に「バッタン機」で織物を育てていた。
(1781年)天明の時代に袴地「五泉平」(ごせんひら)が織られたことが五泉織物産の始まりと言われている。農業は別として、江戸時代の五泉の代表的産業は絹織物であった。「明治初期に羽二重(はぶたえ)を生産する。織物が発達してきた(1887年)明治20年ごろから、輸出向けとして羽二重が織られたが日清戦争で輸出が極度に不況となってからは内地向けの重目羽二重になり、絽(ろ)も(1902年)明治35年から夏物としてその優雅な風合を高めていた。(1900年)明治33年五泉織物組合(組合員75名、織物機台数451台)が発足し、歴史的第一歩を印すことになった」(「新潟県の地場産業」新潟大学教授 池田庄治編著)明治中期、五泉では県内で初のバッタン機が導入され製織能力が2倍となる。のみならず織り上がりも美しくなった。その後、ジャガー機が導入され、製織の効率性が飛躍的に上昇した。そして、このバッタン機、ジャガード機がしだいに新潟県内の他産地にも普及し、新潟県織物業近代化の促進役をはたしていく。かくして、羽二重に代表される織物のまち五泉は、丹後、長浜とともに三大白地産地として数えられるに至る。
大正期、第一次大戦好景気に伴って、日本の輸出用羽二重の生産が急増した。おのずと五泉も好景気を迎えた。私の住む五泉・旧谷地村(今の吉沢1丁目)も機屋が多く景気が良かった。(1906年)明治39年機屋89社あった。伝統ある産地として名声を博し順調に発展してきたが、(1920年)大正9年に戦後恐慌がおとずれ長期不況。
(1933年)昭和8の織物業者関連社長名簿112名の名簿が残っている(入手先は本間葬祭さんより、入手日は平成31年2月17日)この資料を見る限り如何に織物業者が多く盛んであったかが、うかがえる。その後、日中戦争、太平洋戦争に入り、(1941年)昭和16年には織物機台数2,700台と従業員2,260人と五泉も業者数は半減した。さらに昭和18年の企業整備で強制転廃業と大きな影響を受け生産が減少した。廃業を余儀なくされた業者が続出した。残った業者も、軍の必要物資の指定工場になるか、または、絹の軍事衣料やパラシュート生地等(五泉でパラシュート生地を織っていた)の軍需工場へ転換せざるえなかった。転化してその活路を見出しつつ、織物の生産技術を温存していた。昭和18年末の織物機台数は1,148台、織物企業55、従業員580人となっていた。
更に(1945年)昭和20年4月16日、五泉は江戸中期以来の大火に遭った。799戸を焼いた大火は明治から6度目とあって、古い姿をほとんど消えてしまった。ほとんどの織物工場が焼失してしまった。「織機の大半を焼き尽くす。最盛期の16分の1となる程の破滅的な打撃を受け、五泉織物の命脈ここに尽きる感が生まれた」※⇒「この大火を期して五泉織物業は180度の転換を強いられたのである」
「こうした中で、東京を中心とするメリヤス先進地の技術を導入してセーターの生産に力を入れる動きが、織物業者の一部にみられた。戦争と大火の打撃を契機として、一時的な経済縮小と消費構造の変化を背景に、メリヤス生産を成立させ、繊維における複合産地を形成したのである。このメリヤス業の起源はラップを利用したモール編みによる羽織下などの生産にあり、その時期は昭和19年に求めることができる。前後していわゆるメリヤス業も導入されており、昭和21年になると24名のメリヤス業者に増加し、3,000万円の生産額をあげるようになった。小資本でよく、織物ほどの高度の技術を要しないモール編みは、まさに“救いの神”であった。この復興の中からメリヤスが芽生えていった」
「戦後直後の物不足の時代では、簡素な衣類でも充分な需要があった。小資本で操業できるモール編みに転向更に、糸商、買継商等も加わりモール編みが、五泉、村松に急速にひろまった。豊橋、郡山地方より絹短繊維(まゆからとったもので通称ラップという)を原料として羽織下、チョッキ、袖ナシ等の製造を始めた(モール編みという)※これはニット産地創成の決め手になる。しかしながらこの当時の規模は小さく年間50万円の家内工業的なものであった。昭和21年にはモール編みと平行して絹短繊維の糸をつむぎ手紡糸として販売する。新規操業者も増加したことから昭和21年、31余人で五泉莫大小工業組合創立。終戦復興期・ついに昭和22年(この頃織物企業は22社になっていた)の秋には手横編機を設備、本格的メリヤス製造に乗り出した。昭和36年頃までは手横編機によるセーター生産を中心に横編みニット業界は発展してきた。昭和34年5月「五泉メリヤス工業協同組合」後に昭和39年「五泉ニット工業協同組合」となる
菩提寺山の山頂からの菅名岳と五泉市
「昭和22年頃のモール編商品(ラップ製品)の販売方法と言えば、メーカー自身が売るか買継商に売るしかなかった。希望者がいればニット組合が代わって販売したが、しばらくして地元出身の産元卸商が主に取り扱い発達した」ラップ製品をわけてもらい、風呂敷に包み機関車に乗り東北に行商したのが五泉産元卸商の始まりである。その後、五泉ニットは大方、産元卸商経由で東北、北海道中心に販売され発展した。昭和22年創業の産元卸商にとって五泉ニットは「すべて行商から始まると言える」「この時期の産元卸商は東北、北海道を主な販路として、足で稼ぐ個人業者の城を出ず、卸商としての基盤を確立して企業的な活動を始めるのは、ドルマンセーターが開発された昭和27年以降である。」
手横編に続いて(1952年)昭和27年ころから※丸編機を導入し量産化が可能となる。更に共同出資による染色工場ができ産地内で、編み、整理仕上げ染色、縫製の3工程が、ある程度一貫生産体制が確立し、品質を向上させながら出荷できる産地としての基盤がつくられるようになり、生産量は飛躍的に増大した。この当時の五泉生産額は約16億円。
(1956年)昭和31年アクリル糸が横編みに使用され、同時に化繊大手メーカー(東レ・旭化成・東洋紡・三菱レイヨン等)がニット製品分野に進出。
(1957年)昭和32年頃から※ドルマンセーターが流行した。若年層を中心にサマーセーターも流行し、横編製品が年中商品となり、夏の閑散期の受注を埋めた。「丸編み機導入し大量生産可能となり、ドルマンセーターのヒットで五泉のニット業者はみんな大きくなり会社らしくなっていった」(父良夫) 「五泉のニット産業はこのドルマンを境に飛躍的に発展した」
(1959年)昭和34年頃からは、合繊繊維による生産が始まり、これがジャージの需要の増加と重なり、ジャージの五泉と称せられるまでになり、ニットブームによる増産に対応するために、設備の近代化、合理化が図られ、産地基盤が拡大していった。ジャージ生地を裁断、縫製し大量生産が可能となり、更に、ライフスタイルの変化と共に飛躍的に伸びていく。高度経済成長の開始と人口増大がそれを後押しし、五泉ニット製造業と産元卸商は飛躍的に成長する。この頃が「ニットブーム」と呼ばれニット製品の需要が飛躍的に拡大した時期であった。(1962年)昭和37年にはジャガード自動横編機が登場し、(1968年)昭和43年頃には自動編機への移動が本格化する。ニットブームは全国的なできごとであったが、五泉ニットは販売を専門に担う産元卸商が発達したことで、五泉のニット販売額は他のニット産地を凌いで成長する。
早出川の白き土手から見る菅名岳と五泉市
それでも「(1973年)昭和48年のオイルショックにより停滞したので、横編みと丸編みの組み合わせや、丸編みと布帛、横編みと布帛、人工皮革など異素材との複合縫製に早くから取り組み、他産地との差別化が図られた」「(1983年)昭和50年代は五泉産地にとって変化の時代であり、市場ではそれまでの大量生産から質への変化が要求され、・・・産地は国内他産地や輸入品との差別化が一層求められようになった。このころから※デザイナーブランドが台頭しはじめ、ニットでも平面裁断から立体裁断へ転換がはじまり、五泉の優力ニットメーカーは立体裁断により早くから差別化をはかった。」「さらに昭和50年代から中央卸売商やアパレルメーカーへの直接販売をするニットメーカーが大手を中心に増え始めた。
「(1975年)昭和50年の記録によると、五泉ニット工業協同組合の137社中 総生産の100%を産地卸商に販売するニットメーカーは63.5%、直販もあるが、半分以上を産地卸商に販売するニットメーカーは17.5%、一方、中央卸商などに100%直販しているニットメーカーは5.1%にしか過ぎず、この時点では81%が産地卸商に依存しているが、その後、直販的または間接的にも中央との取引を軸に、国内産地と輸入品との差別化を課題に、産地内は再編成されていった」(池田庄司「新潟の地場産業」野島出版、1978)
また、「(1976年)昭和51年には工業事業所数のうち繊維産業が396もあり、年生産額は534億円に達しているが、これは五泉市工業生産額および従業員数でも7,023人と有業人口の90%に当たる。・・・五泉繊維とくにニット工業における史的展開過程において果たした問屋の役割は極めて大きく、問屋を除外して、五泉ニットを語ることはできない。30数社におよぶ問屋の果たす役割は初期の原料供給と販売窓口から、現在はそれらのほかに商品企画、情報収集、金融など多彩な機能を有するコントロールセンターとしての存在であり、従って中央資本からは独立し、地場資本によって地域集団形成されている」「・・こうした製品が広く全国に浸透しているのも、五泉の産元問屋の売り先が幅広い性格を持っているため、市況不安のときにあっても、五泉ニッターにとって安心して生産に専念できることは、五泉ニットの、地場産業としての特色の一つとしてあげられるものである」(1978年・昭和53年初版「新潟県の地場産業」新潟大学教授・池田庄司編著)
父良夫はすでに姉のニット販売を手伝っていたが、昭和22年ニット卸商として独立創業する。良夫は「ラップ製品は良く売れた。ポンチョは良く売れた」「ドルマンは良く売れたな」とよく話していた。
「このドルマンセーターを軸にニット卸商の販路も大きく拡大した。東京、大阪を中心とする全国的なものへと発展、同時に五泉がニット産地としての県内での主導権を確立した」
元々、見附はメリヤス下着が多く、五泉はニットセーター類中心であった。「従来、見附・栃尾地区のニット製品を取り扱っていた見附地区の織物買継商も五泉製品の取り扱いを始め、地元出身のニット卸商に、新潟、三条、長岡、亀田などの業者を加えて、ほぼ現在の形が出来上がった。そして取扱量の増加に伴い、これら各地の卸商は五泉に昭和30年ころから支店や営業所を五泉に設置するようになった」
五泉卸商は大正生(一部、明治33年生まれ。村松)まれの創業者で始まり、更に昭和初期生まれの創業者達や五泉に入ってきた転業者や五泉支店、亀田等の業者の活躍で五泉ニットの販売面で第一期(昭和25年頃~昭和60年頃まで)五泉ニット発展に寄与する。昭和60年頃までは五泉ニット生産額の81%は産元卸が販売した。ニット産地で産元が大きく活躍した五泉と見附。特に五泉産元の発展は国内ニット産地では特別な存在であった。「他県のニット産地には産元卸商は存在しない、五泉だけだ」と東京のアクリル・シルパロン原糸メーカー営業K氏によく言われた。「山形ニット産地には産元卸はなく我々山形ニット製造業者が自ら販売もしないといけなかった」と山形の元ニット製造業者T社長も話していた。五泉ニットが昭和21年~22年スタートした数年後から昭和60年頃までは、五泉ニット生産額の多くは五泉産元経由で販売された。その分、五泉ニット製造業者は生産に専念できた。
(1956年)昭和31年に「五泉メリヤス卸商組合」(現在の卸商である)が設立される。同卸商組合は昭和33年には越後湯沢で見本市を開催し、その後、東海道新幹線が開通すると見本市は熱海温泉に会場を移し、毎年400社を集め盛大に行われた。卸商O氏の発案で五泉メリヤス卸商組合は見附卸商組合と合併し昭和39年に「新潟県ニット卸商業協同組合」となる。見本市は、(1980年)昭和55年に開催地を地元五泉に移された。
冬の早出川と菅名岳・山からのゆたかな雪解け水は大地を潤す
(1970年代以降)昭和45年、量販店が販売経路として大きな意味を持つようになるとともに、状況が変化しはじめ、同時に東京や大阪のアパレルメーカーが直接ニットメーカーとコンタクトを取ったこともあり、依然として地方消費地問屋経由が中心であった産地卸商の流通における中核的な地位は失われた。かつて新潟県ニット卸商業協同組合の組合員だけで43社を数えていたが、(2019年)平成31年現在組合員は9社(稼動実質7社)になっている。このような状況が生じた根本的な理由は、これら産地卸商が販売先としていた地方消費地問屋やその先の専門小売店の販売力が衰退したことにある。量販店に市場を蚕食され、ナショナルブランドのアパレルメーカーに押され、さらには、ユニクロに代表される近年のSPA等の業態に(ユニクロは1997年・平成9年よりGAPをモデルにし、SPA事業展開を進めた。1998年・平成10年にフリースがヒットした)(楽天創業は1997年・平成9年である。2003年より売り上げが急成長・平成15年ころより、ネット通販もヤング中心に大きくなった)、これらの産地卸商が得意先としていた専門小売店がその存立を脅かされている。このことから、これら産地卸商が担ってきた流通経路を通しての販売が絶対的に縮小している。そのため、各産地卸商は、かつてはニット製品全般を扱っていたものが、特定のニッチな製品ゾーンに特化したり、需要即応体制(追加対応や即時売れ筋生産)をそれなりに構築したりして、生き残りをはかってきた。1、海外品仕入で通販企業に対応する企業、2、生産機能を持ち合わせアパレルメーカーと取引する企業、3、量販店向け産地卸商に転換した企業、4、アパレルメーカーとの取引を中心に企画提案力を持つようになった企業、5、そして従来型の地方消費地問屋向け企業取引する企業の5タイプに分かれた。
「(同じ新潟県にある燕の金属ハウスウェアの消費者向け産地卸商が、企画開発力を自社内に保有し、国内外からの関連商品の調達の核になる存在へと成長したのとは、好対照をなしている)」「(従来型も海外調達型も、多くの産地卸商はいずれも国内流通で急激に縮小している地方消費地問屋経由の部分に依存し、かつそのルートを他のルートに対抗可能とするだけの独自性ある商品を、商品の質・価格の両面で供給できないがゆえに、それらの存立は、積極的なニッチ市場開拓によるというより、他が手を付けないニッチ部分への縮小後退により、当面維持されているに過ぎないという状況に陥っている)」
また、卸商の中でも、客先をアパレルメーカー志向にシフトし、昭和55年~平成3年までは、その取引額を大きく伸ばしたが、国内のニット製造業と同じく、海外生産の安価と技術のレベルアップで、ニット製造業以上に売り上げは下がっていった。産元と組んだ沢山の小さな生産業者も縮小していく。
「五泉市の繊維産業は・・新潟県の代表的な地場産業として発展しているものである。(1976年)昭和51年には506の工業事業所数のうち繊維産業が396もあり、年間生産額は534億に達しているが、これは五泉市工業生産額および従業者数でも7,023人と有業人口のそれぞれの約90%に当たる。」(「新潟県の地場産業」新潟大学教授 池田庄治編著)
平成6年に、平山県知事が五泉に来られるので、林市長の要請により卸商組合員3社で五泉市総合会館・中ホールにて市民向け販売会を開催。林市長より「地場産業振興まつり」という言葉を使いなさいと言われる。市民向け販売が余りなかった時代でもあり、なんと30分で一瞬にして完売した。これがきっかけになり、翌年から毎年11月3日に卸商(五泉市卸商組合員のみ)として販売会をするようになり、売上が増えるにつれ他の組合員も多く参加し、徐々に来場者・売上共に増えて五泉市で最大のニット販売会となった。一般市民であるお客様が紳士物を強く要望されたので7年後、平成13年頃より、紳士物が多い見附の組合員にも参加してもらった。平成17年には1日で五泉市中ホールに4,550人来場している。
早出川と菅名岳そして右側が五泉市
五泉ニットの発展には、市役所、商工会議所、銀行、商社、紡績、撚糸メーカー、染色、加工セット業、刺繍、その他外注業者、家庭での内職者の協力も大きな力となった。なんといっても昼夜働くニット製造業者の貢献は大きく、頭が下がる。昭和45年~55年頃と徐々にニット製造者が直販する比率が増えいく。時代の変化で産元経由が徐々に減っていくが、それでも(1985年)昭和60年頃、新潟産地全体でニット生産額約1,100億円の時、産元卸の製品扱い高は約650億であったので、平成時代に変わる前でも、約60%産元を通して販売されたとみられる。
「(1973年)昭和48年の第一次石油ショック後、変動相場制へ移行し、国内産地間の競争が激しくなり、更に韓国・台湾の台頭とともに繊維製品の輸入が増え対外競争の激化を余儀なくされた。」「こうした状況下で、五泉ニット大手製造業は、まず縫製強化をはかった。横編と丸編の組み合わせや、横編と布帛、人工皮革命と異素材同士の複合など品質の転換によって他産地との差別化を進めていった」「そして、安価な輸入品との競合をさけるために、付加価値の高い製品の生産にシフトした」「(1980年)昭和55年頃から紳士物から付加価値の乗せやすい婦人服」へシフトが進み、婦人服セーターが急拡大した」「販売面ではこれまで産元卸商が中心であったが、売上規模の大きいメーカーだけでなく中小メーカーにおいても、直接中央のアパレル・卸商を介在して販売するケースが増えていった。こうした動きは商品企画をスピィーディーにフィードバックすることに寄与し、より技術力・企画力のアップを図ることに貢献した。とはいえ、(1973年昭和48年)石油ショックが五泉ニット産業の分岐点となったことは否定できない」
「五泉ニット製造者の事業所数・従業員数のピークは(1973・74年)昭和48・49年である」(1985年~1990年)昭和60年~平成2年にかけて、「短サイクル少量発注が強まる。反面、バブル好況とコンピュータ化による生産性の向上、製品の高付加価値化で生産額は増加、バブル好況の影響が一番強く、平成3年まで売上は増加し、五泉ニット組合生産額約802億までいく。(2002年)「平成14年五泉市産元売上は<301億7600万円>であった」(五泉市企画財政課「平成14年商業統計調査結果」)アパレルとの直販売組の五泉ニット製造者も下がっていった。
五泉市の青空(11月)
1990年代後半、平成に入り中国の台頭により五泉ニットは逃れられない構造的苦境に突入していく。「バブル崩壊後、中国を中心としたニット製品の輸入急増であった。輸入品の増加は、国内生産量の減少と単価の下落に拍車をかけ、日本国内のニット製造業に大きな打撃あたえた」「また、五泉市のニット産業は、アパレルメーカーの下請化がすすんだだけではない。90年代に入り、中国製ニット製品の質が向上するにつれてアパレルメーカーが発注先を人件費の安い中国に移ったことより、国内製造・販売において決定的なダメージを受ける」「日本の輸入量は、(1991年)平成3年の3億5900万枚から(2000年)平成12年の11億5650万枚へと9年間で3.2倍の増加を示した。」
昭和48年第一次石油ショック後、(1995年~)平成7年頃から海外の安価なニット商品に圧され、(1998年)平成10年以降、ニットの中国からの輸入数量は急増。(1998年)平成10年には、セーター類は枚数で輸入比率90%を超える。(1999年)平成11年の五泉ニットの全国シェアーは10%(金額ベースで国内婦人セーターシェアー20.4%)であった。
「平成12年には、全輸入量の82.9%を中国が占めた」「輸入金額で、平成12年においては、ニット外衣6700億円」「この頃の五泉ニット構成比はセーター類が80%以上の割合を占め、輸入品ニットセーターは金額ベースで52.4%を占め、五泉ニット産業に破滅的ダメージを与えた」
五泉ニット生産額推移をみると、ニット製品の輸入量は増加の一途をたどり(1988年)昭和63年には国内生産量(枚数)を輸入量が上回り、平成期に入ってからは中国製品がシェアーを伸ばし、横編みニット製品の国内市場は圧倒的に輸入品によって占められ国内産地は縮小していった。五泉ニット工業組合のバブル崩壊の年がピークで(1991年)平成3年約802億⇒(2001年)平成13年386億⇒現在、平成26年約116億にまで落ち込む。
五泉ニット工業協同組合では、(1994年)平成6年から、産地オリジナルブランド「GOSEN DREAM(五泉ドリーム)の売込みと開発を行い、企画から販売までを行い、毎年、東急日本橋や新潟県内で年間10回ほどの展示販売会を行った。また、会員企業8社で自己資金と県の補助金により、独自ブランドによる店舗展開として、渋谷区広尾に「MAKER‘S KNIT五つの泉」を(2002年)平成14年9月1日オープンした。消費者直接販売の試みであった。
タオル業界が輸入比率79%の2006年今治タオル産地に「JAPANブランド育成支援事業」の話が持ち込まれ、再生を佐藤可士和さんにお願いし今治タオルが、アメリカより近年入ってきた流行りの「ブランディング」指導により、有名になり(2018年現在も輸入比率79%、現在もOEMが殆どであるが、自社ブランド比率は僅かであるが、今治タオルだけは現在も数量が増えている、昔タオル産地は8ヶ所あったが、現在は泉州産地と今治産地のみあり、他の産地は壊滅した)、日本全国の地場産業が苦しんでいる中、今治タオル産地が、日本の地場産業の成功例となってくれて、「五泉ニット工業組合」も「五泉といえばニット、ニットといえば日本の五泉」に向かって進んでおり、大変厳しい業界ですが、頑張っている五泉ニット工業組合です。一番のたからは人でありますが、五泉ニット製造業者には、殆ど後継者がいます。各社後継者(ニット組合以外の五泉ニット工場でも本当に後継者が多くいます)が多く、全ては人材ありきですので、五泉ニット工業組合を先頭に、国内ニット生産地としては今後の期待さる五泉ニット産地である。
会社概要
社名 | 株式会社 田長 |
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所在地 | 〒959-1822 新潟県五泉市緑町5番16号 TEL:0250-42-3936 FAX:0250-42-5642 |
代表取締役社長 | 田中 一成(三代目) |
創業 | 大正初期(田長商店・小物雑貨で創業)(初代・祖父・良太郎・明治27年生まれ) 昭和22年(田長商店2代目、ニット産元問屋を創業し事業転換)(二代目・父・良夫・大正13年生まれ) |
資本金 | 2,160万円 |
事業内容 | ニットの創造、開発、販売 |
取扱品 | ニットマフラー、ネックウォーマー、レディースニット |
仕入れ先 | 五泉協力ニッター、ニットマフラー・ネックウォーマー等は自社生産 |
アクセス
- 新幹線・・・東京駅➡新潟駅➡五泉駅 3時間
- 飛行機・・・新潟空港➡バス➡新潟駅➡五泉駅 3時間
- 車・・・・・練馬IC➡燕三条IC➡五泉 5時間